一生外せないと言われていた父の胃ろうがMRTで外せた!

体験談

2023/11/14

おじいさん6

年齢 56歳

  ◆ 脳梗塞で入院し胃ろうに… 口から水も飲めなくなって しまった父  

私が仙骨無痛療法を受け始めて一ヵ月たった頃、父が脳梗塞で入院したと連絡がありました。父は「親父の年(七七歳)まで生きれれば良い」と以前から言っていましたが、本当に七七歳の誕生日が来て一週間後に脳梗塞で倒れたのです。命に別状はなかったものの嚥下障害となり※1胃ろうで栄養補給する生活になってしまいました。それからしばらくすると父の看病疲れで母が体調を崩しました。  弟家族は両親と同じ九州に住んでいましたが、離れて暮らしているため看病することができなかったので、当時東京に住んでいた私が二週間帰省することになりました。父は、口から水も飲み込めない状態でしたが、ほかに障害がなかったため元気でした。しかし、痰が絡むときがあるので病院で付き添うことにしました。  この頃の私はアロマの勉強をしており同室にほかの患者さんがいないこともあり、担当医と看護師さんにアロママッサージをしても良いかを聞き、父の好みの香りを使って全身のマッサージをしていました。散歩に連れ出しながらこの期間は、仙骨無痛療法のこについても話すことができました。

父は「この年になるまで生きれれば良いなと思っていたけど産まれたばかりの孫の成長も見たいし、また自分の口から食べたいな。飲みたいな」と言っており、宇司露の方が護ってくださっていることを伝えると「そうだなー」と目を閉じてお礼を言っているように見えました。 ※1 胃ろうとは…腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水分や医薬品を流入させ投与する為の医療措置。 


◆難しいと思われた転院が、 トントン拍子で決まっていった  

総合病院に二ヵ月入院後、転院先を見つけなければならず、父の友人(地域の総合病院の院長)に相談させてもらったところ「胃ろうでの生活だから、余生は田舎の病院で子供や孫に囲まれてのんびり過ごしたら良いですよ。リハビリを兼ねた病院はありません」と言われました。そんなはずはない! と思っていたところ、弟から「知人の友達がリハビリセンターで治療していることを聞いたから病院名を教えてもらった」と連絡がありました。インターネットで調べて、病院に電話して状況を話したらリハビリセンターの方に繋いでくれ、事務局の人が丁寧に聞いたうえで「専門医を含めたチームと相談のうえ、折り返し電話します」と言ってくれました。三時間後に「受け入れの許可が出ました。入院している病院名とお名前を教えてください。転院手続きのFAXを送っておきます。今日は土曜日ですから、月曜日に相手の病院の手続きを終わらせて火曜日にはこちら(県のリハビリセンター)に午後一時までに来てください」との連絡が入り、すぐに父の入院先に連絡すると、「その病院が受け入れしてくれたんですか? 凄いですね! 良かったですね! 手続きの準備をしておきます」と言ってくれました。私もすぐに帰省し父に会いました。見ないうちに弱々しくなっていましたが、自分から「知らない土地でも頑張ってみる」と言ったのは父でした。


◆一回の仙骨無痛療法で、 車椅子から自分で歩いて 『センコツくん』に乗った! 

湯布院に転院する前に父にMRT博多で仙骨無痛療法を受けさせたいと強く思った私は、自分が治良を受けて変わったことを実感していたので、弟達を説得しました。熊本県の人吉から博多を経由してリハビリセンターまでは、仙骨無痛療法を含めると片道八時間掛かることがわかりましたが、転院する途中での仙骨治療をお願いし、予約を入れました。  車椅子から両脇を支えないとMRTテーブルに移れないくらい弱っていた父でしたが、コトッと一回の仙骨無痛療法で自分の足でスーッと『センコツくん』の所まで真っすぐに歩いて行ったときには家族皆ビックリし、「これで治る!」と確信しました。MRTの仙骨無痛療法の凄さを観せて頂きました。  

仙骨治療を受けた帰りの大型ワゴン車の中で父は横になり「頭がスッキリした。眠くなったから寝るね」と安心した顔で寝始めました。起きたとき、スッキリとした顔と目が違っているように観じました。家族は、仙骨無痛療法の凄さと対応の良さと温かい心遣いに感謝しました。


◆一生外せないと思っていた 胃ろうが外せた! 

リハビリセンターに着き検査した結果、「胃ろうからの栄養剤が逆流し肺炎を起こしかけています。もう少し遅ければ死んでいました。胃ろうは外します。これから二~三週間は点滴になります。その間しっかりリハビリしたら食べられるようになります。頑張れますか?」と医師から言われ、「はい!」と父は返事をしました。  一度胃ろうになった人は、そのまま死ぬまで外せないと思っていたので意外でした。  「パジャマは着ません。ジャージです。六人のチームで取り組みます。トイレも看護師かリハビリの担当が必ず付きます。一人で行動させませんし、しないでください。いつもリハビリと思ってください。挨拶もリハビリの一つですから大きな声でします。日常生活がリハビリです」と言われ、リハビリがスタートしました。その後、二週間もしないうちに父から「少しだけど白湯が飲めるようになった!」と喜びの電話がありました。転院する前にMRT博多で仙骨無痛療法受けさせて頂いたおかげだと感謝しました。

更に二ヵ月目には、完全な普通食になって元気な父に戻っていました。入院してみると何人も知り合いがいたことに驚いていました。


◆奇跡のような展開に、 大病院の院長も 「あり得ない!」と驚いた  

父から、転院できたことを友人の方(地域の総合病院の院長)に報告するように言われ、電話をしました。

すると「田舎の病院になったの? エッ! そのリハビリセンターは、私が三年掛けてようやく一人入れられた所だよ。六ヵ月、一年待ちは当たり前。そこの横の病院も空きが出るのを待っている人が入院しているんだよ。三日間で転院? あり得ない。どんな手を使ったんだ!?  教えなさい! 胃ろうを取った!?  ウーン」と言われましたが、本当に電話しただけですと答えて切りました。 そして、そのとき初めてリハビリセンターは中々入れない病院だと知りました。

トントン拍子で整ったので、本当に宇司露の方のお導きだったのだと感じました。  退院後は私が九州に帰省して、一緒にMRT博多で三日間続けて仙骨無痛療法を受けさせて頂きました。私は、このとき父の病気を通していろいろなことが話せて、貴重な時間を過ごすことができ、また家族が団結してまとまったと思います。   

性別 女性